
1960年4月16日3時1分前
この時間にわたし自身としての思い出があるわけではないが、毎年4月16日の3時ごろになると『欲望の翼』を思い出す。制作は1990年であるが、1960年も1990年もわたしは生きておらず、はるか昔のように感じる。この時間は、レスリー・チャン演じるヨディと、マギー・チャン演じるスー・リーチェンがサッカー場で出会い、1分を過ごした時間だ。こうして2人は1分間の友達になり、1分から2分へ...そして時間を過ごしていく。映画では10分足らずの2人の関係性がこの作品の核となる。物語のプロットとして変哲なものはなく、1分という時間もとるに足りないものだが、それを特別なものにしてしまう映画の力に、いつ観ても衝撃を受けている。
ここでの映画の力とは何なのだろう。映画はそこに映像という動くイメージがあって、それに音がある。映像は、さまざまなもので構成されるが、よく目につくのが、人物の所作、カメラの置き方などの構図、編集から読める構成、などであろう。音は、映画内の人物が聞いている音、挿入歌のように鑑賞者が聞いている音、その両方、に分けられる。わたしは『欲望の翼』を、このすべてが調和しているように思える*。サッカー場、部屋の一室、レストラン、フィリピンの木々、様々な場所を行き来しているはずなのに、人物をクローズアップで捉えるカメラによって、私たちはその人間模様に翻弄される。画面の色は雨の多い香港、熱帯雨林のフィリピンを思わせるような、緑がかった色である(王家衛の作品はメイキングとのカラーリングの違いに驚かされる)。人物の動きとそれによってもたらされる時間を操ってしまうスローモーション。そして、「1分間の友だちである」という言葉の力にスー・リーチェンと私たちは捕らわれ、Xavier CugatのMaria Elenaに合わせてヨディが踊るように、時折かかるラテンミュージックがゆったりと過ぎる時間を彩る。ここに挙げたのは一部だけれど、これらすべてが、映画を観ているわたしを惹きつける
感想
感想のような駄文をつらつら書いたので、あまり感想という感想もないが、わたしはこの映画にくそデカ感情を抱いています。毎年蒸し暑く雨の多いこの時期に映画を観て、久しぶりによい機会だと思い文章にしたのだが、あまりにも駄文すぎる。非公開にするかもしれません。けれど、わたしはこの映画を構成するすべてのものについて書きたい。また書くかも。『欲望の翼』と『花様年華』、『2046』はつながりのある3作で、特に『花様年華』は最近映画館でかかっていたこともあり、昔レポートを書いたこともあり、加筆修正して記録しておきたい。
*王家衛の映画においては、とりわけ『欲望の翼』と『花様年華』は、調和がとれているように感じる。

